寺田屋・坂本龍馬

寺田屋・坂本龍馬 写真集


幕末期、寺田屋は討幕派の定宿となった所です。薩摩藩主同士の闘争事件、寺田屋騒動のあった場所として 知られています。当時の建物がそのまま使われており、刀傷や、弾痕は今も残っています。 また、坂本龍馬が後に妻となるお龍の転機で、危うく難を逃れた所としても有名です。
地図



坂本龍馬像

この銅像は寺田屋の正面右側にあります。
「薩長連合、大政奉還、あれはぜんぶ龍馬一人がやったことさ」と勝海舟に 言わせたとおり、龍馬は維新の立役者でした。その龍馬も十代の頃は父親の 八平にさえ「ついに廃れ者になるか」と嘆ぜしめたこともありました。 その頃つくった歌がこの銅像の前にあります。


十代の頃の坂本龍馬がつくった歌

世の人はわれを
何とも云はばいへ
わがなすことは
我のみぞ知る
龍 馬

維新の立役者となった坂本龍馬ですが、十代の頃は土佐の城下で低能児呼ばわりさえ されていました。その頃につくった歌です。龍馬のさみしさが歌にこもっています。



寺田屋騒動

この部屋で寺田屋騒動がありました。

寺田屋騒動:薩摩藩主の父・島津久光は幕府に攘夷を迫るため、家臣を率い京に上がった。藩の尊皇攘夷派の 中でも急進派の有馬新七らは、それに乗じて決起。久光は家臣の跳ね上がりを嫌い、同じく攘夷派だった 奈良喜八郎らに同士打ちをさせた。
詳細は「竜馬がゆく」の第3巻にありました。筆者は全8巻読み終わりました。



坂本龍馬肖像画

2階の床の間の掛け軸です。この肖像画は、寺田屋の女将お登勢が嫌がる坂本龍馬に奨めて、町の画家に描かせたものです。 京都円山公園の銅像のモデルとなりました。




水琴窟城南宮の紅葉醍醐寺宇治川花火大会夏の御香宮夏の宇治川沿い藤森神社の紫陽花酒蔵の菜の花伏見桃山の桜早春の京都伏見雪の長健寺雪の寺田屋、酒蔵| 寺田屋・坂本龍馬| 東福寺の紅葉鳥羽・城南宮のページ伏見桃山城観光のページ伏見稲荷観光のページ伏見港公園御香宮神社・城下町伏見伏見区桃山の地名月桂冠大倉記念館とその周辺の酒蔵おやかまっさん地図・伏見桃山
伏見以外での幕末:幕末と現在の三条河原町二条城