徳川家康が、京都御所の守護と京都に来たときの宿泊所として1603年(慶長8年)に 造営したものです。幕末にはここで四十藩の重役を集め大政奉還の会議がなされました。 大政奉還の発表を行ったのは二の丸御殿大広間です。(ここの写真は撮らせてくれない) 二の丸御殿は現在外装修理中で、完成したら外からの写真だけでも撮りに行きます。
二条城に行くには。
本丸
大政奉還 「十五代将軍慶喜が朝廷に政権を返した。」程度しか教科書には 書いてありません。ここに至るまでには討幕派と幕府を守ろうとする派の 壮絶な戦いがあります。徳川幕府は薩摩、長州の討幕連合に戦をもって 潰されようとしていました。しかし徳川幕府も力は弱ってきたといえ それなりの戦闘能力は持っていました。ここで戦になったら日本としての 体力が弱り、その隙に西欧諸国が入り込み、植民地になってしまうようなことも起こり得たでしょう。 たとえ討幕派が勝ったとしても、徳川は歴史上の悪者になってしまいます。300年近く 太平の世があったのも、徳川の力です。 坂本龍馬は考えました。「徳川が自ら政権を朝廷に渡してしまったら、徳川の名は後世まで 汚れることはなく、戦も起こらなく、外国から攻め入られることもない。」 この考え方は、坂本竜馬の師であった勝海舟の考え方でもありました。 この案は、戦をもって幕府を潰してしまおうと言う尊王派に受けいられませんでしたが この大政奉還の工作を行う為、坂本龍馬は駆け回りました。 一人の浪人が、当時の日本最高の権威の将軍を動かしたのでした。もちろん徳川慶喜は坂本龍馬を知らないし、 坂本龍馬は徳川慶喜に会えるはずはありません。その両人の考えが完全に一致したのが大政奉還です。
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